働く人の心
Naoya Sekihara
泣ける未来は、
仲間と結んだ、ご縁の先に。
関原 直也
広報部
ブランド・マネジメントグループ グループ長
前職:メガバンク
MY PROFILE
前職のメガバンクを経て、2018年に中途入社。商業施設本部リージョナル事業部事業推進グループでラゾーナ川崎プラザのリニューアル、ららぽーと沼津やららぽーと門真の開発に携わる。2021年、商業施設本部アーバン事業部運営企画グループに異動し、MIYASHITA PARK、Hisaya-odori Parkなどの運営企画を行う。2025年より広報部ブランド・マネジメントグループ。企業ブランディングやスポーツエンターテイメント協賛、インナーコミュニケーションなどを牽引している。
僕は仕事で、泣けてない。
関原さんは、入社から7年半で3部署経験されています。今までで一番印象に残っている仕事は何ですか?
事業推進グループの頃に担当したラゾーナ川崎プラザ、ららぽーと門真、アーバン事業部に異動してからのMIYASHITA PARK……すみません、3つになってしまいました。一番を一つに絞りきれないですね。
遡って、全部聞きたいです。前職は、銀行ですよね。
はい。新卒から9年間銀行員をしていて、その中で最も長く在籍したのがストラクチャードファイナンス営業部という、いわばスキームを使い企業の資金調達をサポートする部門でした。顧客企業の事業拡大を支えるべく仕事に心血を注ぎ、いっときはこれが自分の専門性になっていくんだろうな、とも思っていました。ただ僕の仕事はあくまでも企業のサポートで、実際に事業を動かし意思決定をするのは顧客企業。次第にそのことがもどかしくなり、「こんなに意思決定する側を羨ましく思うなら、事業会社に行った方がいいんだろうな」と当社に転職してきました。転職直後からラゾーナ川崎プラザという施設のリニューアルに携われたのは非常に幸運だったと思います。決めるべきことだらけでしたからね。
環境が変わって大変じゃなかったですか?
もちろん最初は大変でした。例えば突然20人ほどいる打ち合わせにポンと出て、何もわからない話が飛び交う中で様々なことを決めなくてはならない、等々。中途採用者は皆最初にぶつかる壁だとは思いますが、やはり僕も「意思決定ってこんなに大変なことなのか!」と早々に思い知らされました。銀行の時はあんなに羨ましかったのに!(笑)。
それでもなんとか紆余曲折を乗り越え、記念すべき初仕事であるラゾーナ川崎プラザの地下フロアリニューアルが完了。迎えたオープンの日、今か今かと列をなして開店を待たれていたお客さまたちがフロアに駆け込んできた瞬間……脇にいた弊社の営業社員が泣いていたんですよ。
感極まって?
はい。それを見て、思わず「自分は泣けるほどに没頭しただろうか」と顧みてしまいました。僕は「ようやく終わった」としか思っていなかったんです。一方の彼女はいろんな感情が込み上げるくらい、このプロジェクトにのめり込んで営業に駆けずり回っていた。同じ空間にいたのに、この差はなんだろう?と。
結局僕は、必死と言いつつどこかでプロジェクトを客観的に見ていて、ある種まだ銀行の延長線上で働いていたんだと思います。でもあの時に、当社の仕事は泣けるほどの仕事なんだとわかった。そこから仕事に対する気持ちの入れ方が変わった気がします。
大義に向かい、一体感を形作る。
二つ目に挙げられていた、ららぽーと門真はどういった仕事だったのでしょうか。
実は門真の前にららぽーと沼津も手掛けていまして、僕としては「同じららぽーとでも場所が変わるとやることがこんなに違うんだ!」と衝撃を受けた仕事でした。例えば沼津の土地はもともと農地で、地権者様は何十人もの個人。一方の門真は全体が一つの企業の所有する土地で、そこからして違いました。
すみません、もともと誰の土地だったかで仕事は変わるんですか?地権者様とのお付き合いは、その用地を取得した段階で完了しているのかと思ったのですが。
とんでもない、取得後もお付き合いは密に続きます。「自分の土地に何が建つのか」は、地権者様にとってとても大切なことです。借地事業の場合は尚更。どんなテナントが入るのか、どんな工事がいつあって、いつ工事車両が走るのか等々、常にお知らせして地権者様と伴走しながら建てていかねばなりません。何度も通わせていただき、沼津の歴史についても勉強させてもらいました。ご自宅に呼んでくださり、手作りの夕食をいただいた時は本当に嬉しかったです。
かなりヒューマンなお付き合いになるんですね。
はい。逆に門真は地権者である企業様とあらゆることを膝詰めで協議したのが記憶に残っています。とはいえ門真の時は、僕もある程度この仕事に慣れてきていた時期でした。地権者、行政、ゼネコンの方々とどう信頼関係を築いていけばいいかもなんとなく掴めてきていましたし、少しでも揉める空気になったら、電話ではなく早朝の飛行機を予約してでも会いに行って話すような動きが自然に取れていました。
じゃあ、仕事そのものは比較的スムーズに?
いやそれが、ららぽーと門真には地権者様の違い以上にこれまでと全く違う条件がありまして。実はここ、当社として初めてつくる、ららぽーととアウトレットを合体させたハイブリッド型施設だったんです。大型施設を新規でつくる時はいつも、オープン後の来館者の車による渋滞が懸案事項になりますが、ハイブリッド型施設の来館者シミュレーションは初めて。加えて国道、府道、市道のそれぞれを改良する必要があり、協議先も国、府、市と多岐に渡りました。コロナ禍でいろいろと制約の多い時期でしたが、協力会社のみなさまとあらゆるパターンの開発案を考え、何度も何度も協議を重ねた日々は忘れられません。
完全に、街づくりですね。施設の中をどうつくるかという話を超えて。
はい、街に手を加えることのセンシティブさに正面から向き合った日々でした。ありがたかったのは、門真市の方々からいただいた期待の声です。本当にこんな大規模なハイブリッド型施設を実現できるのか僕の中では正直不安も大きかったのですが、門真市のみなさまのお声に勇気をいただき、またプロジェクトに関わるみなさまからも多大な協力を得て開業へと繋げることができたと思います。何一つ欠けても実現しなかったと思います。
この仕事を通して、僕自身が当社で仕事をしていく自信がついた気がします。当社の仕事はいわゆるプロマネなので、様々な人に前向きに協力していただきながらプロジェクトを前に進めていく必要があります。どんな立場の人とも逃げずにしっかり向き合い、対話し、心と心を結びながら一体感をつくっていく。そうすることで壁を乗り越えていけるという感覚が身体に宿ったんだと思います。
そしていよいよ次の仕事が……
MIYASHITA PARK!ですね。
MIYASHITA PARKの進化を止めるな!
関原さんがアーバン事業部に異動したタイミングには、すでにMIYASHITA PARKは開業していましたよね。
はい、僕は開業までを担当した社員からバトンを引き継ぐ形で運営を行いました。まず僕は、地元の商店街の会長さんや副会長さんをはじめ様々な方々とお知り合いになることから始めました。みなさんと普段から仲良くさせていただく中で、「MIYASHITA PARKをどう進化させていくべきか」を考えていました。
具体的に課題はあったのでしょうか。
課題の1つに公園の収益性がありました。当社としても渋谷区としても、公園の維持管理を続けていくためにはもう少し収益を生む仕組みが必要だよね、という共通認識を持っていたのです。そこで目をつけたのが広告でした。通常、公園というのは広告を出せない規制があるのですが、それを渋谷区や東京都と何度も協議しながら「広告を出せる公園」へと変えていったのです。渋谷のあの恵まれた立地で、公共の公園に広告を出せるとなったら様々な企業がMIYASHITA PARKを舞台にプロモーションを行いたいと思うでしょう。
「広告を出せる公園」としての進化がまず一歩目。ただ、それだけでは足りない。個人的にはもっと新しい取り組みにも着手していかないと、周辺のライバル物件に先を越されるという焦りがありました。渋谷ですので、トレンドの発信地たる役割が求められます。MIYASHITA PARKの進化の余地はそこにあるんじゃないかと。
何ができるか、社内の大勢の方に相談しました。立場も年次も超えて、皆が真剣に考えてくれて、「なんていい会社なんだろう」と本気で思いました。そうこうするうちに、デジタルサイネージなどトレンドを取り込む装置を作れないか、と考え始めたんです。トレンドの「先」とはいかずとも、「まさに今流行っているもの」が自然と集まってくる装置です。
ただのデジタルサイネージじゃ面白くありません。渋谷らしく先進的で、今の若者に刺さる企画に仕上げて行かなくては。そう思った時、僕はある人を思い出しました。商店街の方々に可愛がられていて、地元の集まりに行くとよく見かけたHさんです。Hさんは渋谷の空気を吸って育ってきたような人で、渋谷のこと、ストリートカルチャーのことなら誰よりも詳しい。「今の渋谷を知りたいのですが」とHさんに申し出たところ、「わかりました。では23時集合で」と指定されました。
23時集合!?
チーム員と共に集合場所に行くと、まずは渋谷のバーに連れて行かれました。「今の渋谷はどういう街か」を説明するHさんの熱い語りを聞いた後、「じゃ、次行きましょうか」と今度は音楽がガンガンにかかって若者たちが踊っているクラブに移動。そのままクラブを2、3軒ハシゴしました。解散は深夜の2時、3時だったでしょうか。もうヘロヘロで耳は聞こえず、「渋谷ってなんだろう」と余計わからなくなってきました。ただ、なぜだかここでHさんから教わることを辞めてはいけないと思ったんです。このままだとMIYASHITA PARKの進化が止まる気がした。
その直感はどこから?
Hさんがクラブで見せてくれた「渋谷の若者」たちは、確かに、MIYASHITA PARKにはいないんだよなぁと思ったんです。来ないんです。彼らにも来てもらう手立てを僕らはまだ見つけていない。それにHさんがその夜何度か繰り返した「今の渋谷には溜まり場がない」という言葉もすごく引っかかっていました。
クラブが溜まり場じゃないんですか?
そう思うでしょう?違うんですよ、クラブは一義的には音楽を楽しむ空間であり、“行く人は行くけど、行かない人は全く行かない”とはっきり分かれてしまっている。そうではなくて、もうちょっと敷居が低く、目的が固定されておらず、様々な人が会社や学校の行き帰りに立ち寄れるようなストリートな溜まり場が今の渋谷にはないんだと。セレンディピティ(偶発的な出会いや発見)がないんだとHさんはしきりに言っていました。「それをMIYASHITA PARKの空間で提供したらいいんじゃないですか?」とも。
僕は後日、もう一回Hさんに連絡をしました。Hさんのように、僕にはない視点や生き方を持った人と一緒に歩む。それがMIYASHITA PARKの進化の鍵だと僕は感じていました。
ご縁が、未来を連れてくる。
Hさんとはどんなふうに本格的に仕事する関係になって行ったのでしょうか?
上司に紹介して、食事をしたりなどして社内の皆とも仲良くなってもらいました。すぐに意気投合して、メンバーと一緒に韓国へ視察などにも行く関係になりました(笑)。韓国でデジタルサイネージがどのように活用されているか、先進事例を見てきたんです。それを参考に、MIYASHITA PARKでのデジタルサイネージの配置や活用法を一緒に考えていきました。
僕はHさんと一緒に過ごす時間、彼の発する言葉をいくつもメモしていました。先に挙げた「溜まり場」「セレンディピティ」だけでなく、「連続性」も彼がよく言っていたことです。それをヒントに、複数のデジタルサイネージが全く同じものを映すのではなく、連続して関わり合って全体で何かを演出するような仕掛けへと昇華させて行きました。そしてさらに、MIYASHITA PARKの一区画を、誰がどんなイベントのためにでも借りられて、物販だけでなく飲食物の提供も可能な空間へと変えました。これで、広告の内容に関連するイベントを実際の空間を使ってできるようになった。当社としても、「広告とセットで体験も提供できますよ」と空間を販売できます。
その空間こそが「溜まり場」になっていくのですね。
まさにそれが狙いです。私の異動後になりますが、記念すべき第一号イベントは、16年ぶりに来日したイギリスのロックバンド、oasisの公式ポップアップショップでした。開催期間中は42面のデジタルサイネージも全てoasisがジャック。どこを歩いてもoasisの音楽が聞こえ、ストアの中ではお酒を飲むこともでき、連日oasisファンが詰めかけてくれました。
この話には後日談があります。Hさんの存在がうちの社内でも知られるようになったのです。するとMIYASHITA PARKだけでなく他の企画構想の際にHさんに声がかかる。今やHさんは日本各地のららぽーとや、既存施設のリニューアルなどに貴重な意見をくれる存在として飛び回ってくれています。
渋谷に関することじゃなくてもアドバイスできるんですか?Hさんは。
結局Hさんは渋谷のプロなんじゃなくて、コミュニケーションのプロなんだと思います。どうやって世の中とコミュニケーションを取っていくか、その設計が上手い。加えて、Hさんの中でも当社への理解が深まったことで、より多方面に協力しようと思ってくださっているのだと思います。気づいたら他の人とも仕事をしているというのは、驚きですが、嬉しかったです。
僕は今広報・ブランドマネジメントの部署にいますが、ここでも当社にない視点やカルチャーを持つ人たちとご縁を結ぶことから、新しい変化を起こしたいと思っています。当社は本当にいい会社です。その良さをまだ知らない人たち──「自分とは違う」と距離を置いている人にも、もっとファンになってほしい。そのために、僕らとは異なるバックグラウンドを持ちながらも「この人となら」と思える相手と積極的に仲間になる。異世界の人と手を組む冒険のようなあのドキドキを忘れずに、いくつになっても進化し続けていきたいと思っています。