Hiroko Ashizuka

自分の心に問いかけて
信じた道を、真っ直ぐに。

芦塚 弘子

三井不動産投資顧問株式会社(出向中)
前職:不動産金融ベンチャー/総合商社

MY PROFILE

前々職の総合商社、前職の不動産金融ベンチャーを経て2019年に入社。商業施設・スポーツ・エンターテインメント本部アーバン事業部事業推進グループにて、MIYASHITA PARKの竣工までのデベロップマネジメント・行政協議・開業準備、銀座3丁目物件の建替、複数の都心再開発プロジェクトにおける商業施設エリアの提案・開発など多岐にわたる物件、事業フェーズに携わる。2023年に三井不動産投資顧問株式会社へ出向。不動産私募ファンドの組成・運用、投資家営業、物件取得など、国内外を対象に幅広く業務を担っている。

大事なのは、仕事を通じて
社会に何を還元するか

芦塚さんは現在、三井不動産投資顧問株式会社に出向されています。前職が不動産ファンド関連のベンチャー企業ですので、多少、親和性のある業務ということになるでしょうか。

そうですね、経験を活かしやすいポジションではあると思います。前職のベンチャーについては、友人が創業者、私はCo-Founderとして不動産証券化に関連したプラットフォームを運営していました。前々職は総合商社で処遇もかなり良かったので、一緒に働こうと持ちかけられた時に「3年で商社の処遇を超えられなければ離れる」と宣言の上で参加しました。結局それとは別の理由で1年半で離れたんですが……。

その理由、気になります。まずは総合商社で働いていたあたりから、遡って経歴をお伺いしてもいいですか?

商社には新卒で入社して13年いました。小さい頃からほんのりと「社会の役に立つ仕事がしたい」と思っており、商社に入れば資源の少ない日本に必要な資源を確保できたり、日本のメーカーの海外拠点づくりをお手伝いしたりと社会に貢献できるんじゃないかなと思ったのが理由です。同期も先輩も皆優秀でしたし、切磋琢磨される環境に身を置けたので、1社目があの会社で本当に良かったと思っています。

じゃあなぜ辞めたのかというと、私、ずっと海外で働きたかったんですよ。トレーニーでもなんでもいいから、海外で働く経験を積ませてほしいと希望を出していたんです。でもなかなか叶わず。人事に「いつになったら行けますか」と聞いたところ、「お子さんがまだ小さいのだから無理して海外に行かなくてもいいんじゃないですか?」と言われ、いやいやいや!と。確かに、私は入社5、6年目あたりで結婚して子どもが二人いました。でも家族は私が海外に赴任することになってもOKだと言ってくれていたし、会社にもそのことは伝えてありました。それでも気を遣われてしまうのか……と。

悔しいですよね。母親であったとしても、ビジネスパーソンとしての時間は平等に、容赦無く経つのに。

いつ行けるのかさっぱりわからないんだったら、待っているだけじゃなくて、ちょっと自分から他のキャリアも見てみようかな?と思っていたところに友人から起業の声が掛かったんです。そもそもビジネスパーソンとしての自分の伸び代というか、「これからまだ何十年も働くのに、こんな成長速度で本当に大丈夫なんだろうか」と疑問に思っていた時期でもあったので、思い切って未経験の分野にチャレンジすることで、どこか伸ばせるかもしれないな、なんて気持ちもありました。

ところが、そのベンチャーを1年半で辞めることになったと。

はい。ビジネスとしては非常にうまくいって、ありがたいことに初年度で100社を超える金融機関様がご参加くださいました。ただ、友人は”社会的意義のある事業を行い、安定的に利益を出すこと”をゴールとしていたのに対し、私は”出した利益をさらに社会に還元していくこと”を目指しており、その価値観の違いが徐々に大きくなっていったんです。これはどちらが良い悪いという話ではなく、考えの違いです。ただ私は、少なくとも上場や売却といった出口を実現しないことには出資者に恩返しができないと考えていました。根本の考えが違うと、一緒にやっていくのは難しいものです。「自分で選んだ船だけど、私にはこの船は合わなかった」と、船を降りることにしました。

自分の頑張りが、
世の中のためになる手応え

転職するにあたり、次はどんな会社がいいと思っていましたか?

まず、何よりも会社の目指す方向が共感できる企業にしようと思いました。自分にとって共感できる理念やビジョン、あるいは社是のもとで長く事業が行われており、社員一人一人の志がちゃんと高い会社であれば、長く働き続けられるのではないかと。不動産やデベロッパーという業種にはあまり興味がなく、転職先の候補から外していました。ただキャリアアドバイザーを通じて連絡が来て、それが三井不動産だと知った時、「あ、三井不動産さんなら受けてみたいです」と言ったんです。先述の条件にマッチするのに加え、ベンチャー時代に接点があった三井不動産の人たちはベンチャーの新しい取り組みに興味を持って聞いてくれ、心象が良くて。実際、面接を通じてお会いした方々は皆チャーミングで、会社の雰囲気も良さそうでしたし、こういう人たちと働きたいなと思えました。

今私、すごく安心して働いているんですよ。会社の方針が腹落ちしているからこそ、どの部署にいたとしても、自分が仕事をすることによってちゃんと世の中の役に立っている実感がある。間違ってない、と思える。やはり以前の経験があったからこそ、「安心して頑張れる」ことも「信頼できる仲間と働ける」ことも、当たり前じゃないことがよくわかりました。キャリアの納得度に影響していると思います。

儲けや肩書きではなく「社会の役に立っているか」「間違ったことをしてないか」が芦塚さんにとって非常に大事な軸なのだと思います。その価値観はどこから来ていると思いますか?

一つは両親からだと思います。父が地元の佐賀で医師をしており、子供の頃から時折お会いする方から「あなたのお父さんに助けてもらいました」と言われたりして、なんとなく徳が高い仕事なんだなと思っていました。私自身は医師になるつもりは全くなかったけれども、私も「人の役に立っている」と胸を張れる仕事をしよう、という気持ちはずっとありました。

もう一つは小学生から続けている空手道の教えですね。礼儀の大切さや空手を暴力として使わず人のために使うことなど。小さい頃から刷り込まれてきたと思います。大学まで部活で続け、大学3年時には女性として初の主将を務めました。メンタルスポーツだったことが、15年近くも続けた理由かもしれません。

「君の良心に照らして、
間違っていなければ進めていい」

三井不動産に入ってから、印象的だった仕事はなんですか?

たくさんありますが、やはり入社してすぐに担当したMIYASHITA PARKの開発は「デベロッパーの洗礼」を受けた経験として強く印象に残っています。私が入社したのは2019年10月、その時点で外から見える建物は出来上がっていたものの、中に入るテナントの内装や植栽などはまだ全く手付かずの状態。そこから竣工予定の翌年6月までに、細かい意匠・コスト・所有区分など全てを決定し、工事し、開業に至る必要がありました。

もともと、私がチームに加わるまでこのプロジェクトは優秀な先輩が凄まじい仕事量を捌きながら前に進めていた状況でした。本人に聞いたわけではないものの、先輩としては、増員するなら開発経験者に異動してきて欲しかったかもしれないですが、開発業務未経験の私が配属されても、既に猫の手も借りたい状況だったので任せざるを得なかったのでしょう。早速「自分の代わりに渋谷区との行政協議に出てほしい」と言われたので、すぐに議事録フォルダを開き、直近で何を話したのか課題を確認し、バタバタと乗り込みました。正直、わからないことが多いままで動き始めましたが、先輩には「芦塚が自分の良心に聞いて、“間違っていない”と思えるなら進めてきていい。責任はとる」と送り出されました。

ラッキーだったのは、先輩が渋谷区の担当者の方々と大変良い関係を築いてきてくれていたこと。おかげで私が名刺交換した瞬間から「入社したばかりなんでしょう?大変だね」と、これまでの経緯や前回の協議内容、今から決めるべきことについて先方からとても丁寧にレクチャーをいただきまして。

なんとありがたい。

本当に。もちろん渋谷区の方々からしても、MIYASHITA PARKという渋谷区肝入りのプロジェクトを絶対に前に進めるぞという気持ちだったんだと思います。ご存知かもしれませんが、旧・宮下公園は木が生い茂って暗く、治安の悪さに人が避けて通るほどでした。しかも1964年の東京五輪と同時にできた公園下の駐車場には公園の木の根が侵食してきていて、地震が起きたら崩壊の危険すらあった。「渋谷駅の足元にこれをこのまま放置しておけない。一刻も早く、普通に遊べて、地震の際にも安心して逃げ込めるような公園施設に作り替えなくてはならない」「ただし区民の血税を一円たりとも無駄にしてはならない」という気迫を渋谷区の方々からは強く感じました。

期待値も注目度も大変高いプロジェクトだったと思います。そこに右も左もわからない状況で放り込まれて、しかも先輩は多忙。どうやってキャッチアップしていったのでしょうか?

先輩と私はバラバラに動くことも多かったのですが、時間が合えば一緒に現場を回らせてもらいました。その度に、先輩がゼネコンの方と何を話しているのか一生懸命聞いていました。ゼネコンの皆さんにも「この設備は何のためにあるのでしょうか」「いま地面を触っていたのは何を確認していたのでしょうか」等々、まるで大人の社会見学のように聞きまくって、挨拶して、顔を覚えてもらって。邪魔にならないようにだけは気をつけていました。失敗もありましたが……。

失敗、とは?

例えば最初の頃、スカートやローヒールの靴で現場に行ってしまったんですよ。一緒に検査に入っていたゼネコンの方に、「危ないし、いい靴が汚れてしまうから、工事現場では絶対にフラットな靴の方がいいですよ」とマイルドに注意されました。本当にその通りです。確かに商社時代も鉱山に行く時は安全靴を履いていましたから、それと同じなんですよね。次の日からすぐにズボンとフラットシューズにしました。

要はそんな当たり前のお作法もわからないところから、一つずつ自分にできる仕事を拾っていったんです。渋谷区と三井不動産での資産区分・費用負担区分の決定、図面の塗り分け、ゼネコンさんとのコスト交渉、開業に向けてのプレスリリース対応、管理組合の立ち上げ、その管理規約の作成。ネオンの色や内装の素材なんかも「私が決めていいんですか!?」と思いながら決めました。裁量権の大きさにびっくりです。とにかく先輩には先輩にしかできない業務に集中してもらおうと必死でした。あまりの忙しさに左右違うスニーカーを履いていってしまい、現場の人に「それは、オシャレなの?」と聞かれたこともあったくらい(笑)。

(笑)。それくらい目まぐるしかったんでしょうね。

でもあの頃は、毎日毎日、「自分にやれることがある」ということにワクワクしていました。そう思えるまで現場の方に育てていただいたということでもあります。それに契約書関係は商社時代に読み慣れていたので、不動産という知らないジャンルでも「英語じゃないだけ良かった!」といった感じでどんどん読みましたね。これまでの経験が活かせるところもちゃんとあったわけです。

長い目で見て考えて、
全員の幸せをつくれるか

MIYASHITA PARKは無事に開業しましたね。大きな話題にもなりました。

はい。なんとか竣工し、開業し、打ち上げをした日のことは忘れられません。渋谷区やゼネコンの方など5、60人が集まって、「ワンチームで本当によく頑張ったよね」と互いに慰労しました。先輩からは「芦塚がいてくれて本当に助かった」と言ってもらいましたし、そもそもこの案件を受注してきた当社の用地取得部隊の方々からは「君が芦塚か!いいもの作ってくれてありがとう。奮闘していると噂は聞いていたよ」と言ってもらいました。現場の所長は「自分が今まで手がけたプロジェクトの中で一番好きだ!」と、竣工写真をスマホケースに印刷したものを自腹で100個作って配っていました(笑)。心温まる、いい夜でした。

開業してからも一年ほどは、運営のメンバーと一緒に関わりました。ありがたいことに評判は上々、「人が来すぎて困っているくらいです」と渋谷区の方々に言っていただきました。一方で開業して初めてわかる問題や、ベストを尽くしても想像通りではなかった部分もありましたので、それらを自分で確認できたのも良かったと思います。

MIYASHITA PARKの経験が、その後の仕事の仕方に影響した部分はありますか?

「現場を実際に見る」を重視していることかもしれません。現在の投資顧問の仕事でも、後輩を誘ってよく物件を見に行っています。デスクに張り付いてエクセルや契約書を精査する仕事も大事です。が、現場に行って図面と突き合わせ、修繕箇所を把握し、周辺環境を確認することもすごく大事。そうしたことが、「今は問題になっていないけれど、ゆくゆくはリスクになりうること」を見つけ、先んじて手を打っておくことにも繋がります。

MIYASHITA PARKの時に学んだことですが、「今だけ良ければいい」「自分たちだけ良ければいい」と思っていたらデベロッパーの仕事はできないんですよね。綺麗事かもしれませんが、「この仕事に関わる人みんなが満足しないと、仕事をする意味がない」と私は思っています。本気でそれを実現しようとすると、やるべきことは膨大になりますし、壁も生じます。自分なりに最善の判断を下したとて、後世の人からすれば「なぜあんなことしたの?」と言われることもあるでしょう。でも、だからこそ今調べ尽くし、考え尽くし、一つの判断に至るまでのロジックを記録として残しておく。説明できるようにしておくのです。そうすることで初めて自分の仕事に胸を張れますし、良心に沿った仕事をしたと言えるんじゃないかと。そう思いながら、これからも「芦塚がいて良かった」と言われる仕事を積み重ねていきたいと思います。