働く人の心
Soshi Higuchi
明けない夜はない。
諦めない心があれば。
樋口 創士
海外事業本部 海外事業一部
前職:ゼネコン
MY PROFILE
ゼネコンでの開発営業経験を経て、2012年に入社。ビルディング本部法人営業二部に配属され、オフィスビルへのテナント誘致や新築オフィスビルの新規顧客開拓を担当。2017年に同本部ビルディング事業一部に異動、新規開発オフィス旗艦物件のソフトサービスを企画。2019年より同本部ワークスタイル推進部にてワークスタイルコンサルティングサービスやサブブランド「WORK STYLING SOLO」の立ち上げに従事。2021年からは商業施設本部アーバン事業部にて原宿・心斎橋・幕張などでの事業機会獲得に奔走、2025年より海外事業本部海外事業一部にて欧米事業のマネジメントにあたっている。
「46歳なのに、
まだドキドキしてるの!?」
樋口さんは2012年に三井不動産に転職し、これまでの約13年半で5つの部署を経験しています。数年おきにジョブローテーションが繰り返されることについて、率直にどのように思っていますか?
良いと思っています。というか、それが転職の一つの目的でしたし。僕、学生時代は大学院で街づくりを専攻したこともあり、他職種への異動のない“専門職採用”でゼネコンに入社したんです。ただ5、6年くらい経つと「向こう30年、このまま同じ部署の同じメンバーで同じ領域の仕事をやるのは退屈かも」という気持ちに変化しまして。長い人生、同じことをやり続けるより、異動で思いがけない仕事の面白さを知り、経験の幅も人脈も広がっていく方が楽しいだろうなと。もちろん三井不動産に来てからは、数年おきに新しいことを覚えねばならず大変ではあります。ですが、それよりも「次は何ができるんだろう?」のドキドキや面白さが勝る。いま46歳なんですけど、妻に「あんた46でよくそんなドキドキしていられるね」って呆れられます(笑)。
(笑)。元々はどんな仕事がしたくて三井不動産に転職したんですか?
事業者側で仕事したいと思って転職して、いずれは海外事業もやりたいと思っていました。海外事業はまさに今、5部署目として叶っております。とはいえ決して入社から13年間も「叶わない」と耐え忍んでいたわけじゃないんですよ。実は最初に配属された部署の上司が当社でも指折りの用地マンで、用地取得の面白さをいつも熱く語られていたんですよね。それを聞くうちに「事業の中でも用地取得をやりたい。そして、用地を経験してから海外に行った方が、実力がついて、海外で面白い仕事ができそうだ」と思うようになって。それが4部署目で叶い用地に配属、5部署目でいよいよ海外。私にとっては理想的な順番だと思います。
転職時の「事業者側で仕事がしたい」というのは、自分たちで決めて、自分たちのお金で開発して、自分たちで収益を上げていく立場になりたいという意図です。それが理由でゼネコンからデベロッパーに移ってきています。なので、正直その中で「やりたい仕事」を狭く限定していたわけではないんです。もっと言えば、「他のデベロッパーじゃなくて三井不動産で働きたい!」という気持ちで当社だけを受けたので、念願叶って入れた以上、どんな仕事でも食らいつく!成果を出す!と思っていました。
なぜそんなにも三井不動産に熱い気持ちを?
僕が入社する前の2006年~2007年頃は、商業施設においてはラゾーナ川崎やミッドタウン六本木をはじめとする複数の物件の開発があったり、銀座で立て続けに開発を行ったりなど、三井不動産ってものすごく勢いがあったんです。銀座のコンペで競合することもありましたが、ライバルになる時も純粋に「すごいな」と思っていて。僕としてはもう、「新しいところで自分の力を発揮できるとしたら、三井不動産しかない!」っていう……勝手な片思いでしたね(笑)。
両思いになってよかったです(笑)。
苦しくても、
投げ出したら「負け」になる。
樋口さんが仕事をする上で大切にしているスタンスはありますか?
雲外蒼天。どんなに曇っていても、雲の上には青空が広がっているんだよ、ということ。この言葉を昔から知っていたわけではないのですが、見た瞬間に「自分がずっと大事にしてきたのは、こういうことだったかも」と思いました。意味合い的には「明けない夜はない」に近いかもしれませんね。要は、辛くしんどい時期が続いても、腐らずに頑張ればいつかは抜け出せると。そう信じて働いています。
そのスタンスは三井不動産に来てから得られたものなのでしょうか。
いや、転職する直前の経験に紐づいています。当時は都心の大型商業施設のリニューアル案件にプロマネとして入っていました。世間からは非常に注目された案件だったのですが、社内では華やかな新築案件の影に隠れ、技術や設計の協力が得られず。長いトンネルの中にいるようでした。その時に上司に言われたのが、「明けない夜はないよ」で。結局どうしたかというと、仕事として普通に依頼しても動いてはもらえないと思い、煙草は大の苦手なのに喫煙室まで行ったり残業中に差し入れをしたり。ヒューマンな部分から懐に入って、「あいつが言うなら」で動いてもらえる関係を築きました。途中で投げ出して転職しようかと何度思ったことか(苦笑)。でも逃げてしまっては一生それを引きずるだろうと思って、ちゃんと一区切りつけてから転職活動を始めました。
投げ出さない性格は、昔から?
どうでしょうね。単純に負けず嫌いではありました。勉強とか、マラソンとか。思い出すのは、マラソン大会の練習のために「当日まで各自走るように!」とグラウンド100周分のチェックがついた紙を配られたことがあったんです。それを、配られたその日に100周走って一番乗りで先生に提出しました。100周=約20キロです。先生には「本当に走ったのか?」って疑われました(笑)。
100周している間に日が暮れたのでは?!走るのが得意な方だったんですか?
いやいや逆なんです。むしろ運動全般できない方でした。マラソン大会も、最初の頃は学年50人中40位くらいだったかなぁ。それが悔しくて毎朝自分で2キロくらい走るようになり、ある程度走れるようになって、先ほどの100周の話につながっています。
前職の話や今のマラソンの話を聞くと、樋口さんには「不屈」の魂を感じます。壁にぶつかっても諦めず、自分が強くなることで乗り越えていく。この記事のテーマを「不屈」として書かせていただいていいですか?
いいですよ、それが編集しやすければ(笑)。お任せします。
諦められるわけがない。
その瞬間、奇跡が起きた。
三井不動産で特に印象に残っている仕事はなんですか?
都心商業施設の用地取得部門に異動して3年目の出来事です。それまでの2年間は前任者から引き継いだ案件をクロージングするくらいで、自分が仕込みから手がけた案件はなく、成果を出さねばというプレッシャーに追い詰められていました。ただ、そもそも都心の商業用地って、銀座、表参道、大阪の心斎橋くらいで非常に限られていて。銀座でも中央通り2丁目から6丁目の間とかくらいですから、そんないい場所、滅多に売りに出ない。僕がいくら仕事でヒットやホームランを打ちたくても、そもそもストライクの球がほとんど飛んでこないという世界です。そんな矢先、大阪の心斎橋で、ある魅力的な土地が市場に出るという情報が入りました。すぐに目をつけ、真っ先に手を挙げて優先交渉権を獲得!競合と一日違いだったそうです。
実は「手を挙げる」のも簡単な話ではありません。「その土地を買う、もしくは借りられたとして、そこで何をするのか」まで決まっていないと会社として動き出せないから。つまり先に“その土地にふさわしいテナント”をグリップしてからじゃないと、買付申込書を出せないという事情があったんです。今回の場合は最初にお声がけしたA社テナントに一度決まりかけたものの、途中で断られ、「まずい!」と。しかし次に見つけてきたB社が入ってくれることになり、なんとか交渉を継続することができました。
スピード勝負というのは、土地が売りに出た情報をキャッチする速さだけではなく、テナントと話をつけてくる速さも大いに関係するんですね。
まさにそうです。さて、心斎橋のその土地は借地。厳密にいうと、元々その土地を借りて社屋を建てていた会社が破産したために市場に出てきました。先方として交渉の場に出てきたのは、元あった会社の破産管財人弁護士と、地権者二人のそれぞれの弁護士、計3名。加えてその下につく若手の精鋭弁護士が計4名。合わせて7人の弁護士に囲まれて我々は交渉を行いました。大阪の交渉のプロ7人です。まぁ手強く、弁が立つとはこのことかと思い知りました。それでも僕と、入社3年目の相方の二人で毎週のように大阪に通い、必死に食らいついて、譲れるところと譲れないところを一つずつ書面で詰めていきました。交渉は長引き、年を跨ぎました。ただ最後は契約内容もほぼ定まり、あとは締結だけに。
ところがそのタイミングで大事件が。B社が突然「やっぱりこの土地に入るのはやめます」と連絡してきたんです。
B社がテナントに入らないと、どうなるのでしょうか?
三井不動産としては、テナントが決まらないまま土地を借りるわけにはいきません。よって、これまでの交渉の全てが無効になります。優先交渉権も手放します。
会社では上司から怒号が飛びました。「なんで顧客をグリップしきれなかった!?」。その時僕の口をついて出た言葉は「ここまで交渉してきて諦めろってことですか?!」。そう、絶望で頭が真っ白になりながらも、心は諦めたくなかったんです。だけどもう手はないし、上司たちはさっさと切り替えて弁護士たちへのお詫び行脚の相談に入っている。謝罪したらいよいよ白紙です。
と、その時、何が起きたと思いますか?
……何が起きたんですか?
A社です。一度可能性が消えたと思ったA社から電話が来たんです。「あの土地って、まだ入れますか?」と。どうもA社の親会社から「あの土地に出店せよ!」という指示が急に下ったらしい。そんなことってあるんだろうかと、相方と顔を合わせて呆然としました。奇跡が起きたと思いました。
「決められる」ことに、
仕事の醍醐味がある。
「断られて白紙寸前」からの「A社復活」は、一日で起きたことなんですか?
そうです。B社がテナントに入らないと連絡してきたことによって、一度ひっくり返った船が、A社という幸運の風が吹いてまた戻った。連絡があと一日遅かったら全てが白紙だった。あの日のことは一生忘れないと思います。今、無事に契約は締結され、A社のブランドの店舗建設工事が進んでいます。
ちょっと奇跡的すぎるエピソードで、再現性が低いし、ここまで綱渡りになることも珍しいのですが(笑)、とはいえ改めて、当社の用地取得って単に土地を売買したり借りたりするのが醍醐味じゃないんですよね。本当の面白さは、そこにどんなテナントを持ってきて、何をするかまで思い描き、決めていけることにある。まさに僕が「事業者側としてやりたかったこと」が詰まっているんです。もちろん全ての取引には大なり小なり先を読めない要素があり、完全にシナリオ通りとはいきません。でもそれを織り込んで勝負に出て、うまくいくと凄まじい達成感があります。僕はもう海外事業部に異動しましたが、たまに心斎橋の工事現場は見に行っています。
成果を出して、異動され、これから海外事業部でどんなことに挑戦したいですか?
また妥協せずに、自分たちらしい企画で街の景色をつくりたいと思っています。「自分たちらしい」というのはつまり、利益主義に陥らないということかもしれません。もちろん企業なので利益は無視できないファクターではありつつも、「ただテナントを入れて賃料が取れればいいや」では決してない。店舗ひとつとっても「このお店ができて人の流れが変わったね」「街が明るくなったね」という街の人の実感につながる企画がしたい。
実は僕、学生時代にひとつ心残りがあるんです。それは街づくり専攻時代の修士論文。国内のとある温泉街をテーマにとり、「この街はなぜ民間主導のブランディングがこんなにも成功しているのか?」を研究しました。そこは行政が旗を振らずとも、温泉旅館の旦那衆が自発的に立ち上がり、街全体のために連携している活気にあふれた街だったんです。ただ修論としてはちっともまとまりきらず、修論発表もしどろもどろ。40歳くらいまで夢に出てきました、「修論が出せない!これじゃ内定をもらっている三井不動産に入社できない!」って。新卒で入ったの、三井不動産じゃなくてゼネコンなのにね(笑)。
でも三井不動産で働いていて、ふと「あ、あの時にやりたかったことができているかも」と思ったことがあって。「いい街」の要因はなんなのかを、当時も考えていたし、今も考えている。しかも今は実際に取り組んでいる。僕は今、仲間たちと「どうする?何やる?」って話している時が一番楽しいです。三井不動産にいる限り、これからも、このワクワクする気持ちはずっと続くんだと思います。